人間関係の分断と編集
先日の卒業制作発表会で、心理学の山下先生の研究室で行われたある調査結果が目に留まった。
ネット世界と実世界の友人関係をアンケートで調べたものより。
mixiの複数アカウントを所有している者が、90人中19人・・・。
(※リアル、ネットというのは、その人がmixiに入るとき、リアル世界の友人とネットの友人のどちらに招待されたか、の分類だったと思う)
おじさん世代としては、へぇぇ!そんなに居るんだ。と驚きを隠せない。
ネット世界と実世界の友人関係をアンケートで調べたものより。
mixiの複数アカウントを所有している者が、90人中19人・・・。
(※リアル、ネットというのは、その人がmixiに入るとき、リアル世界の友人とネットの友人のどちらに招待されたか、の分類だったと思う)
おじさん世代としては、へぇぇ!そんなに居るんだ。と驚きを隠せない。
しかし、俺がそのデータに吃驚しているのを聞いていた某学生、
「あ、俺も使い分けてますよ」
一体なんで分ける必要があるのかを聞くと、
「だって実名じゃ何もできないじゃないですか」
何をやっているのだか・・・・。
ログインしなおすのは面倒なので違うブラウザにそれぞれCookie食わせてる、と教えてくれる女子学生もいた。
俄には理解しがたい行為だが、利用規約がどうこう以前に、まったく同じ世界に入り直して、自己をスイッチングしている現象は興味深い。そういうニーズは別のSNSに行くかと思ってたけど、そうじゃなかったんだな。
しかしよく考えれば、人間は皆、状況や相手によっていろいろなモードを使い分けているもの。だから実はCMC(Computer mediated Communication)に限った話じゃないことに気がつく。仮想世界への没入がどうたらとか、近頃の若者らはどうたらとか、ネガティブな見方だけで片付けるのは早計というもので、そもそも多次元的に構成されているはずの人間の活動が、フラットにアクセスできる構成(例えばマイミク)に変換されていることに無理があるんだろう。複数アカウントによって別のIDを持って生きる人々は、その無理によって出現した。
ユーザーが自分自身で世界の入り口を切り分け、SNS特有の息苦しさや関係疲れを巧みに回避しつつ、自分にとっての快適かつアクティブな空間を編み出していることに着目してみよう。おそらく、そこに生のリアリティがある。
「あ、俺も使い分けてますよ」
一体なんで分ける必要があるのかを聞くと、
「だって実名じゃ何もできないじゃないですか」
何をやっているのだか・・・・。
ログインしなおすのは面倒なので違うブラウザにそれぞれCookie食わせてる、と教えてくれる女子学生もいた。
俄には理解しがたい行為だが、利用規約がどうこう以前に、まったく同じ世界に入り直して、自己をスイッチングしている現象は興味深い。そういうニーズは別のSNSに行くかと思ってたけど、そうじゃなかったんだな。
しかしよく考えれば、人間は皆、状況や相手によっていろいろなモードを使い分けているもの。だから実はCMC(Computer mediated Communication)に限った話じゃないことに気がつく。仮想世界への没入がどうたらとか、近頃の若者らはどうたらとか、ネガティブな見方だけで片付けるのは早計というもので、そもそも多次元的に構成されているはずの人間の活動が、フラットにアクセスできる構成(例えばマイミク)に変換されていることに無理があるんだろう。複数アカウントによって別のIDを持って生きる人々は、その無理によって出現した。
ユーザーが自分自身で世界の入り口を切り分け、SNS特有の息苦しさや関係疲れを巧みに回避しつつ、自分にとっての快適かつアクティブな空間を編み出していることに着目してみよう。おそらく、そこに生のリアリティがある。

ほほう…なかなか興味深い話ですね。
ネット上だと個人というものの使い分け、切り替えを上手にしないと
色々と困ることって多いと思います。現実世界以上に。
その辺の話は是非直接会ってお話したいです(笑)
こういうニーズがあるってことは、なんか新しいサービスの芽を感じるんだけどねぇ。
しかし。みんな何をしているのかと・・・。
就活はどうですか?
暇会ったら山の上までどうぞ。
この現象、うちもインタビュー調査で見つけ、注目していました。
対象は大人。
と思っていたら、最近、内田樹氏が2002年の文章で書いている(というか、ご自身の行為に対する考察だが、一般化可能な感覚を予見している)ことを知りました。
自分の持つ多面的・多層的なリソースのどの辺を表出するか、どう「自分」というものを適切に演出するか、ということは、基本的には、ピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」でも明示されているとおり、人は(子供も含めて)普通やっていることなのですが、コミュニケーションツールが、物理環境を含む身体性を、人間の存在と切り離すことを可能にしたため、人はもっと手軽に、その切り出し方を意識的に操作できるようになった、ということでしょう。
> ネット上だと個人というものの使い分け、切り替えを上手にしないと
> 色々と困ることって多いと思います。現実世界以上に。
このことも面白いですね。私は、ネット上のコミュニケーションツールは「人は(工夫しないと、あるいは、きちんと妥協しないと)もともと理解してもらうことなんてできないんだ」ということを、よく分からせてくれる存在だと感じています。人の表現力、理解力(やる気を含めて)、そしてその柔軟性の限界、それに、人はもともと文脈のなかで、ようやくある意味を持って存在しているのだ、ということがよく分かります。
分かる、ということは、人によっては厳しいものでしょう。
出典を探してみたのですが、本棚にあった「大人は愉しい」(2002)でもちょっと似たことを述べておられました。これかな?もともとネットで公開されていたものですが、氏が活躍され始めたこの頃に感じておられたことなんでしょうね。
>「人は(工夫しないと、あるいは、きちんと妥協しないと)もともと理解してもらうことなんてできないんだ」ということを、よく分からせてくれる存在
ずいぶん達観(笑)しておられますね。表出された現象の裏を洞察されているのはお仕事柄というべきでしょうか。
(ツールを介してそれぞれが解釈する)主観的な世界と世界が合流してもなかなか地面は繋がらないですね。障壁を取り除けば取り除くほど、皮肉にも立っている位置の違いが明らかになっていくのでしょうし。
通常の人間はそういう世界の解釈には有る程度のリミッターをかけて、それを越えることは「分からない」としてしまうものだと思いますが、それは自分の処理能力を越えて壊れてしまわないようにする防衛本能でもあるのかな、と思ってます。だからコミュニケーションツールの限界や不可能性に気がつかないでコード化された情報と戯れられるってことは、それはそれで幸せなことではあるのかな、と。
もともと人間ってそういうものだ、と楽天的に考えることにします。