体系的な知識とは
新卒予定の人たちに歴然と表れている「差」について、あるCTOの指摘。
うーむ、こういう問題は自分の欲求の趣くままに生きているだけではわかりにくいし、自ら気付くにせよ、気付かされるにせよ、他者からの影響は必須だよな。
個人的な見解になるが、体系的な知識とは、学校で準備して一定のラインをパスすれば認められるようなものではなく、自分の視点を上げてメタに俯瞰し、ものごとの文脈的な前後左右(関わり合い)を見渡すようなイメージだ。だから、個々の知識のパーツをガシガシと組み合わせて一定の構造を見出すまでのトレーニングを積む学習の量としては同じでも、同時にそれがどんなかたちしているかをときどき引いて見る努力、自分の学んでいる知識を異分野の人にわかるように語り下ろす努力(つまり他のコミュニティとの接点における自己省察)が重要なんじゃないか、と思った。そういうことが普通に行われるような環境づくりなのかも、と。
可能性が感じられる人、というのはつまり、自分が何をしたいか明確に分かっていて、かつその分野の体系的な知識を身につけている人たちです。現時点ではそんなに多くを習得しているわけではないにせよ、体系全体を理解していますから、自分がどこまで知っていて、未知の領域がどのくらいあるか、感覚でつかんでいます。(学生の勉強不足は論外としても)今の情報環境自体が断片的なものなので、情報に接する態度によって差が開いていく傾向は今後ますます強くなっていきそうな気がする。技術者だけではなく、おそらくどの分野にも通じる話なので、大学で教育している側としても責任感じる話だ。同様のことを指摘した内田樹の言葉を思い出したのでこちらも引用してみよう。
断片的な知識と体系的な知識
教養の深浅は、自分の「立ち位置」を知るときに、どのくらい「大きな地図帳」を想像できるかによって計測される。教養のない人というのは、「自分が何者 で、どこに位置しており、どこへ向かって進んでいるか」を考えるときに、住んでいるマンションの間取り図のようなものしか思いつかない人のことである。教 養がある人というのは、世界史地図のような分厚い本を浮かべて、そのどのあたりの時代の、どのあたりの地域に「自分」を位置づけたらいいんだろうと考えら れる人のことである。
「子どもは判ってくれない」洋泉社 2003
うーむ、こういう問題は自分の欲求の趣くままに生きているだけではわかりにくいし、自ら気付くにせよ、気付かされるにせよ、他者からの影響は必須だよな。
個人的な見解になるが、体系的な知識とは、学校で準備して一定のラインをパスすれば認められるようなものではなく、自分の視点を上げてメタに俯瞰し、ものごとの文脈的な前後左右(関わり合い)を見渡すようなイメージだ。だから、個々の知識のパーツをガシガシと組み合わせて一定の構造を見出すまでのトレーニングを積む学習の量としては同じでも、同時にそれがどんなかたちしているかをときどき引いて見る努力、自分の学んでいる知識を異分野の人にわかるように語り下ろす努力(つまり他のコミュニティとの接点における自己省察)が重要なんじゃないか、と思った。そういうことが普通に行われるような環境づくりなのかも、と。
カテゴリ
EducationTRACK BACK(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 体系的な知識とは
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://blog.kmhr-lab.com/mt/mt-tb.cgi/137

松岡正剛氏の言う編集術みたいなもんですかね。
そういえば「知の編集術」とか数冊読んだ気がしますが、忘れてました。ほとんど同じ事なんでしょうね。