環境危機はなぜあおられるのか
知り合いのブログ巡りをしている時に見つけた、札幌私立大の福田さんらがやっておられるコンペのテーマが興味深かったのでメモ。
「人類にとってのエコ」ってのは身もフタもない正直な発言でちょっとビビるが、このへん、最近ちょっと気になっているテーマだったりする。
最近になってますます声が大きくなり始めたCO2削減ブームは、なんだか単純な話に割り切られているように感じて、どうもそこの仕組みがよくわからないのが本音だ。よく知られているように温暖化してるのは事実だとしても、その因果関係や解釈を巡っては色々な見解があるようで、そういう話を読めば読むほど素人的にはもう真偽の確かめようがなく、そのまま思考停止せざるを得ない。
参考リンク:
・環境省が出している「Stop the 温暖化」と、映画「地球温暖化詐欺」(Wikipedia)の比較。
学生らのデザイン提案の指導をしていると、エコのためにユーザーにCO2排出量を意識させるようなテーマは比較的よく出会うものだが、その前提となっていることを疑わねばならないとすると、どうしても提案の妥当性に対しての歯切れが悪くなっていく・・・。人間が「よしよし、環境にやさしいことをしたぞ」と満足できることが決してゴールではないわけだし、もし仮に対策して得られる効果が気休めに過ぎないのなら、そのコストを無視しないで他への優先順位を考えるべきだろう。そんな感じで、考えれば考えるほど具体的なデザインは進まない。うーん、難しい。
でも、視野は広く持っていたいものだ。
ところで、悪の人間関係のセオリーとして、仲の悪い人とうまくやっていくには「共通の敵を作ること」、というのを聞いたことがあるが、グローバルが進む現在、世界中をつなぐ共通言語として環境問題は分かりやすいのかもな。細分化していくパーソナルな物語だけでは社会は築けない。いつのまにかエコが広報活動にすり替わっていく風潮を見ると、そんな奇妙な感想をもつ。
ロンボルグの新刊「地球と一緒に頭も冷やせ! 温暖化問題を問い直す 」が最近出たらしい。
レビューを読むと、興味深そうなので読んでみたい。
今年も札幌メディア・アート・フォーラム(SMF)トライアルを開催します。
テーマは、「環境~エコを捉え直す~」です。
今の日本では、環境保全のためのエコ活動が活発ですが、
それって本当に、
「地球にとってのエコ」
「人類にとってのエコ」
になってるのでしょうか?
というのが、このテーマの発端です。
SMFトライアル
「人類にとってのエコ」ってのは身もフタもない正直な発言でちょっとビビるが、このへん、最近ちょっと気になっているテーマだったりする。
最近になってますます声が大きくなり始めたCO2削減ブームは、なんだか単純な話に割り切られているように感じて、どうもそこの仕組みがよくわからないのが本音だ。よく知られているように温暖化してるのは事実だとしても、その因果関係や解釈を巡っては色々な見解があるようで、そういう話を読めば読むほど素人的にはもう真偽の確かめようがなく、そのまま思考停止せざるを得ない。
参考リンク:
・環境省が出している「Stop the 温暖化」と、映画「地球温暖化詐欺」(Wikipedia)の比較。
学生らのデザイン提案の指導をしていると、エコのためにユーザーにCO2排出量を意識させるようなテーマは比較的よく出会うものだが、その前提となっていることを疑わねばならないとすると、どうしても提案の妥当性に対しての歯切れが悪くなっていく・・・。人間が「よしよし、環境にやさしいことをしたぞ」と満足できることが決してゴールではないわけだし、もし仮に対策して得られる効果が気休めに過ぎないのなら、そのコストを無視しないで他への優先順位を考えるべきだろう。そんな感じで、考えれば考えるほど具体的なデザインは進まない。うーん、難しい。
でも、視野は広く持っていたいものだ。
ところで、悪の人間関係のセオリーとして、仲の悪い人とうまくやっていくには「共通の敵を作ること」、というのを聞いたことがあるが、グローバルが進む現在、世界中をつなぐ共通言語として環境問題は分かりやすいのかもな。細分化していくパーソナルな物語だけでは社会は築けない。いつのまにかエコが広報活動にすり替わっていく風潮を見ると、そんな奇妙な感想をもつ。
環境問題を恐れるとき、ぼくたちはどうも短期的な気休めの解決策にとらわれて比較的どうでもいいことにお金を使いがちで、結果としてずっと重要なことに使われるお金を減らしてしまう。水環境や農薬や地球温暖化の問題にしても、リソースを使うときには合理的になってよく考えた発言を下すべきだ。だからといって、合理的な環境管理や環境投資がよいことであることが多いのを否定するつもりはない。単にそういう投資でも、人間活動の重要分野すべてにおける似たような投資のコストや便益とくらべなきゃいけませんよ、って言いたいだけだ。追記:
全体としてぼくは、あまりに楽観的だとそれなりの代償がついてくるけど、あまりに悲観的なのだってそれなりに高くつく、ということを強調しておくことが大事だと思う。
もし未来を信じなければ、ぼくたちはどんどん無力感にとらわれ、無関心になり、おびえるようになる---自分のなかに引きこもるようになる。そして地球のために戦う決意をしたとしても、まともな分析から生まれたものよりも、増大するおびえから生まれたプロジェクトに参加してしまうことになるだろう。
もちろん、単に未来を盲信するわけにはいかない。でも本書の記述と議論は、ぼくたちを非生産的な心配から解放してくれるものだから、大きな影響力を持ちうる。それはぼくたちが社会の有形無形の資産生産に参加しているんだという事実について、新たな信頼を与えてくれるものだ。
<中略>
世界で手に入る食糧が 増えたのは、みんなが心配したからじゃない。先見の明のあった個人や団体が緑の革命を起こしたからだ。ぼくたちが余暇や安全や所得や教育水準を高めたのも、心配したからじゃない。その問題に取り組んだからだ。
ぼくたちは問題に取り組むべきだし、理性的に優先順位を付けるべきだけど、無用に心配するべきじゃない。
「環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態」 ビョルン・ロンボルグ 著 山形浩生 訳 p572-573
ロンボルグの新刊「地球と一緒に頭も冷やせ! 温暖化問題を問い直す 」が最近出たらしい。
レビューを読むと、興味深そうなので読んでみたい。
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