学びの体験が繋がる日(冊子「大地のつくり」収録テキスト)

| | コメント(1) | トラックバック(0)
P1000467.jpg3月頃のことになりますが,ブログでもご報告.
多摩区三大学連携事業に採択していただきました「多摩区の自然環境への理解を深める体験型学習コンテンツの開発」で制作した成果物の冊子「大地のつくり」ができました. 本年度の冊子には僕はほとんどタッチしてませんが,スタッフのみなさんの尽力で素晴らしい本になりました.

P1000475.jpg
取り組んだ2年生CD応用演習の学生達の成果物紹介,栗芝先生が計画した演習のプロセス,それらに加え,だれでもつくれるように教材レシピ等のコンテンツを掲載し,現場の小学校の先生方にも興味を引く内容にできたと思います.
演習のウェブサイトはこちら

この冊子の中に,演習スタッフがそれぞれエッセイを寄せました.
かなり荒い文章でお目汚しではありますが,上平の原稿をここに転載しておきます.
よろしければどうぞ.

========================


学びの体験が繋がる日

text =上平崇仁(多摩区三大学連携事業 責任者)


子どもは誰もわかってない。
 去年のことである。僕の担当しているプロジェクトの学生達が小学校の先生達にインタビューに行き、こんな話を聞いてきた。小学校のカリキュラムは、"『生命』を軸に考えられているんだそうです"、と。

 国語・算数・理科・社会などのそれぞれの科目は一見、当たり前のように最初から存在しているように思えるが、そうではなく、人間にとって根源的な問題である「いのちとはなにか」ということを多方面から捉え、長い試行錯誤を経て社会全体で共有すべきことがまとめられている、ということらしい。

 言われてみれば、それぞれの科目の背後にある学問体系は確かに生命に対しての人類の問いであり、多角的な解釈であるというのは合点がいく話である。学校の勉強にいい思い出がない人でも、文章を書いたり読んだり、お金を計算したりしながら、なんとか社会の中で生活していくことができるのは、そういった地道な教育の成果なのだろう。これらは、多分小学校の先生方はみな日々熱心に考えていることだとしても、当の子ども達は誰もがよく分かってないという点でなかなかに興味深い。

 学生達からその報告を聞きながら、僕はしばらく考えた。なぜ学級会なんてものがあったのか、と言えば、教室という小さなスケールで政治や民主主義の仕組みを理解するためだろうし、しつこく書かされた日記は、言葉を使って記述するとともにその日の出来事の振り返りを促して物語化するためだったんだろう。そして、毎日やらされた清掃は、自分達の場所を清潔に保つという習慣付け以上に、誰かが汚したものでも、誰かが復旧するための作業を負担しているというという当たり前の因果関係を理解するためでもあるんだろう・・・。そうすると、いつしか子どもの頃に意味も分からずやっていたことよりも、一段階上の狙いが読めることに気がついたのである。

 遠足にしても運動会にしても、すべての小学校のイベントは、全部目的をもって組まれていたんだ、ということにようやく思い至り、当時の先生達の顔と当時の自分の気持ちを思い出しながら、なるほどそうだったのか、と初めて腑に落ちる経験をした。僕は恥ずかしながら卒業後20年以上立ってから、ようやく小学校での出来事を「学んだ」といえるのかもしれない。


学ぶ、とはどういうことなんだろうか?
 人は若年期の多くを、何かを学ぶことに費やす。学校や塾、お稽古事に子ども達は忙しく、日々のペーパーテストの成績が彼らの進路に与える影響は大きい。誰もが多くの学びの機会を持ってそれまで過ごしてきていながら、それらの意味は見失われがちである。ある人は「効率よく点を取る方法を教えてくれるサービスが大事」と言い、またある人は「苦痛を減らすために、興味を引くような楽しい仕掛けが大事」と言うかもしれない。いずれもその場での解決ではあるのかもしれないが、学ぶことの本当の意味かと言われれば、ちょっと疑問符が付く。

 そう考えると、子ども向けの学習教材を作るというこの演習の課題は、結構やっかいな問題であることに気がつく。そこには、自らが「学ぶこと」の意味をたかがその程度のことと短絡的に捉えると、そこで提供できる価値もまたその程度の短絡的なものになってしまうという巧妙な相互関係があるからである。いい成果のためには、まずは自分がいい学び手でなければならないのだ。

 それまで自己と不可分のものであった学習体験を、だれか他の人のために切り離して考え相対化していくのはなかなか難しい。子ども達の目を輝かすだけでなく、そこで教える知識がどう達成されることを願うのか。今回、この演習に参加した大学生も、小学生レベルの簡単な知識の裏にある深さに悩まされたからこそ、この相互関係に気がついたのではないだろうか。子ども達の学びのための教材をデザインするということは、それまで想像していたよりも随分といろいろなことを考えなければならないものである。

立場を変えて見えてくること
 それらは、学習者としての自分の立ち位置を変えてみることで、初めて見えてくるものであろう。この演習では視点をチェンジする機会として、毎年登戸小学校との連携授業を行っているが、本年度も多くの方々の尽力によって実施することができた。

 今回のテーマである「大地のしくみ」は非常に地味な単元である。しかし、春の震災によって、大学生も子ども達も、足元を揺るがす地震や液状化現象などのメカニズムに無知ではいられなくなったことは、この単元に対する意欲に大きな影響を与えることになった。

 当初はボーッとしていた学生達も、生田緑地での調査や小学生との交流を経験して、すこしづつ自分の立場を理解していった。教材の企画には教員も含めて全員で知恵を絞った。体験型の装置も、ただ不思議な技術で子ども達を驚かせることを目的とはしなかったつもりだ。そういった努力が実って、発表会は、子ども達の方も大学生の方も、ただの知識伝達ではなく、多くの意見を交わし、考えを深める学習の場になっていたと思う。双方が関わり合いを通して影響を受け、自分の価値観を変容させるひとつのきっかけとなったはずだ。

 今になって振り返ってみれば、大学生にはいろいろと反省点は残ったかもしれない。だが、なにかを学んだ、ということは、その人の中に組み立てられる体験であり、きわめて個人的なものである。それは短い発表会の時間だけで決まるわけではなく、いつか別の出来事との幸運の出会いによって、その人だけが掴み取ったものになる。その時は無我夢中で深く解釈することができなくても、それがいつかすっと腑に落ちる時のために、そして自分だけが繋げることが出来るその瞬間を追い求めて、小学生も大学生も、そして我々教員も学ぶのである。

(2012年2月12日)


カテゴリ

TRACK BACK(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 学びの体験が繋がる日(冊子「大地のつくり」収録テキスト)

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://blog.kmhr-lab.com/mt/mt-tb.cgi/308

COMMENT(1)

先日は大変ありがとうございました。
もしこちらでなければ失礼な為、お礼だけにさせて頂きます。

浅野 太郎

コメントする

このブログ記事について

このページは、kamihiraがMay 12, 2012 5:46 PMに書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「MY ROLE PROJECTが本になりました」です。

次のブログ記事は「学生と一緒に出演した教育映像「tunnel man」が公開」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

購読する このブログを購読

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

Powered by Movable Type 4.0